ではこの世の始まりについて私の仮説を語りたいと思います。
物質の大元
ただ一つのなにもない、なにかがありました。
ただなにかが一つだけありました。
おかしな表現ですが、そうとしか言えないのです。
その「なにか」を私たち人間が科学的に解明することはできないと思います。
まだ「無」とか「空(くう)」とかいう概念、あるいは「神」とか「ワンネス」とかという言葉も、もちろん人間もなにも存在していない状態のことです。
そのなにかのことを私は「天」と言うことにしました。
日本語の「天」には文脈によって様々な意味があり、英訳する時にも様々な英単語になりますが、私はここではこの世の始まりの前からあったなにかのことを「天」と表現しています。
この世のすべての大元(おおもと)のことです。
「この世」とは私たち人間が認識できる世界のことであり、地球上での「現実」のことの意味で使っています。
「天」は「あの世」とも言える私たちこの世の人間が認識できないものであり、現在の科学では解明されていないものです。
ある時、そのなにか(天)は唯一無二で己(おのれ)しかなく他が何もないので、何も起こらず、ただ一様な全体としてあるだけではつまらなくなりました。
その思いがゆらぎとなり、天の意図が生まれました。
天自身が己(おのれ、自己)の中に認識できる何かを創ろうと思いました。
そう思ったら、あっと言う間に何もなかった天自身の中に「これ」と「あれ」のように異なると認識できるものができました。
天は「自ら」を「分けて」、自分になりました。
後に「物質」と言われるものの大元はこの天の最初の意図による最初の創造物の一つのことです。
このことは1995年にアメリカで出版されたニード・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」の日本語訳の第1章で語られていたことに気づきを得ました。
私たちも「自分」って言いますよね、それに関西では相手の事を「自分」って言いますし・・・
面白いですね、どうしてでしょうか?
宇宙論では特異点の前は「無」であったとしか言えないようですし、量子重力理論の仮説やマルチバース仮説などがあるようですが、科学者が想像しているこの宇宙以外のもの(多次元、多宇宙、多世界など)の始まりについては語られていないようです。
聖書では「初めに、神は天と地を創造された。」、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」とありますが、神の前については語られていないようです。
仏教では「無始無終」という考えで、宇宙も生命も、永遠に輪廻(サンサーラ)の中で生滅を繰り返しているとされているようですが、その始まりについては語られていないようです。
日本の古事記では混沌の中に最初の神が現れ、次々と神々が現れて天と地が分かれ、イザナギとイザナミという神が矛(ほこ)で地の海をかき混ぜたら「おのころじま」という島が最初にでき、その後日本列島を創ったとありますが、やはり神が現れる前については語られていないようです。
人間には科学でも、宗教や哲学でも、スピリチュアルでも、この世の本当の始まりについてはわからないものだと思います。
「神はどうやって存在し始めたのか?」という問いには宗教も哲学も答えられていないようです。
やはり初めから存在していたとか、始まりのない永遠の存在とか、言うしかないようです。
私もそう思いますし、とにかくすべての大元であるなにか一つとしか言えません。

