何かについて考えるというのは創造的な行為だし、言葉によっても創造が行われる。思考と言葉、この二つがあわされば、効果はますます大きくなり、現実が生まれる。
思考は言葉とイメージによる情報となります。そして同時にアカシックにも送られ、同種の情報と反応します。アカシックにはすべての情報が記録されていますので、個々の思考がどの情報と反応するかはわかりません。このことを私は天の采配といいます。情報もエネルギーであり波動です。波動は同じ周波数と同調・共振するのが物理法則です。また周波数とエネルギーは相対的な関係にあり、高い周波数は強いエネルギーを持ちます。アカシック内のどの情報と反応するかによって現実化が決まります。
あなたは求めるものを手に入れられないし、欲するものを得ることもできない。求めるというのは、自分にはないと言いきることであり、欲すると言えば、まさにそのこと(欲すること)を現実に体験することになる。したがって、正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である。現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いはかなうと認めることだ・・・。感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい。
スピリチュアルではよく語られることですが、神は言葉通り、文字通りのことを叶えてくれるということです。天にはポジティブとかネガティブとかの相対概念がありません。願望は叶っていないから願望であり、その言葉通りに願望のままが実現します。願望は、既に叶っているイメージをリアルに想像し、その時に抱くであろう感情を抱くことで実現するとよく語られます。その時の感情は叶ったことへの感謝の気持ちなので、事前に感謝することが、実現を信じることになる。信じたことが実現するのは理解できますが、事前に願望が実現した状況をリアルにイメージして感謝することは、実際にはとても難しいことです。
口では「これこれについて、神さまに感謝します」と言いながら、内心、願いが満たされていないと信じていたら、神はもちろんあなたが信じるとおりにする。
あなたが知っておかなければならない大切な秘密は、思考の陰にはつねにもうひとつの思考、「思考を支える思考」とても言うべきものがあって、それが、思考をコントロールしているということだ。
「欲求を陰で支えている思考」というのは、「望みがかなっていない」という思いだから。そちらのほうが現実になるのだ。
「思考を支える思考」とは潜在意識のことだと思います。神は脳科学や心理学が正しいと語っているようなものです。願望を抱くということはそうなっていない現実があるからであり、たとえ自分で願望が実現したと想像して感謝したつもりになっても、それはあくまでも顕在意識上でのことであり、無意識のうちにその反対のこととして、未だ実現していない現実と本当に実現するのかという疑いも生まれて潜在意識に記録されます。この世は相対性なので必ず両極が存在しています。意識の95%を占める潜在意識にそのようなネガティブな意識があれば、わずか5%の顕在意識よりも強力ですので願望が実現しない現実となります。願望が実現することを100%信じきれる人はごく僅かだと思います。ではどうすればよいのか?神は神が必ず実現してくれるという信念だけだと語ります。「信念」とは、自分が正しいと信じる考えや宗教を信じるようなことであり、人によって様々です。それはこれまでの個々の人生で蓄積された潜在意識の集大成みたいなものであり、あくまでも個人的なものですので私は自己バイアスといいます。この信念(自己バイアス)による意識と行動が現実を引き寄せます。つまり、神を信じ、思考は現実化するということを信じている自己バイアスでなければなりません。しかし、現代において多くの人は過去の経験から自己バイアスが形成されており、神を100%信じている自己バイアスを持っている人は少ないと思います。もちろん私もです。
究極の結果については懸念していない。究極の結果は確実に決まっているからだ。そこが、人間の第二の大いなる幻想だ。人生の結果が不確かだと思っている。究極の結果が不確実だと思うから、あなたの最大の敵が生まれる。不安だ。結果に確信がもてないから、創造者を疑う。神を疑う。神を疑えば、不安と罪悪感をいだいて生きることになる。
人間の第一の幻想は、神が私たちが期待するような助け方をしてくれると思っていることですが、神はそのような助け方はしないと語られています。神は私たちに自由意志を与え、その力で好きなように生きられるようにはしてくれているので、この世では私たちが自らの意志で創造しなかればならないということのようです。神は私たちが何を意図し、何をしようがそのことには関心がないので完全に自由であると語られています。神が私たちの意図をくみ取って、実際に具体的なものをこの世に創造してくれるわけではないということです。あくまでも私たちの自由意志しだいであるということです。そしてその自由意志がアカシックでどの情報と反応するかは天の采配なので私たちにはわからないことです。
そして第二の幻想は、究極の結果は決まっているのに、私たちが好きなように生きることで得る結果が不確かなので不安を抱くということです。究極の結果は決まっているということを信じられる人も少ないと思います。つまり完全に神を信じ切っている聖者ではない私たちは、究極の結果が決まっているとは考えらず、必ず不安を抱くということです。すべての結果(現実)はその原因となる私たち個人の意識と行動が天の采配によって決まっているという真理を悟らなければならないと思います。
深く探ってみれば、人間の行動には二つの動機しかない。不安か、愛か。じつは、感情の源もこの二つだけだ。魂の言葉にはこの二つの言葉しかない。この二つはわたしが宇宙を創造し、あなたがたが住む世界を創造したときに生み出された二つの極なのだ。これらが「相対性」というシステムを可能にする二点、アルファでありオメガだ。この二点、ものごとに対するこの二つの思考がなければ、ほかの思考は存在しえない。
相対性について語られています。神がこの世を創造された時に相対性が生まれました。この世では物事は他の物事との関係の中でしか存在できないようになっています。不安(ネガティブ)がなければ、愛(ポジティブ)が存在できないのです。そして神は、私たちは神が創造したなかでいちばんすばらしい、すぐれた存在であることを知らないと語ります。もし知れば、神を信頼し不安は消えると語ります。そうすれば、究極の結果が決まっていることも理解し、何をしようとも結果を気にすることがなくなるかもしれません。でもどうしたら心底神を信じ切れるようになるのでしょうか?私は自ら真理を探究し気づくことで自分だけの真理を信念として信じ切れるようになることだと考えています。
私たちが潜在意識(自己バイアス)を作り始めるのは、両親の影響がもっとも大きいです。親はまだ何も知らない自分の子が危険にさらされないように、してはならないことを教えるからです。その後は社会や宗教からも善悪を教えられます。そうして私たちは潜在意識に蓄積された「教えられた」記録(プログラム)を常に参照するようになります。私たちはほとんどのことを無意識のうちに自己バイアスからの指示に従っています。神は「教えられた」ものには神の真の意志とは異なるものがあると語っています。神は常に私たちとコミュニケーションを取っており、「心の声」として語りかけていると語っています。「心の声」とは、稀にインスピレーションもありますが、ほとんどの場合は感情のことです。自己バイアスからの指示に対して、ポジティブかネガティブの感情が湧いたら、ポジティブならその通りに、ネガティブなら別の選択をすればよいということになります。しかし、その感情もプログラムから生まれたものかもしれません。神がコミュニケーションに使う「心の声」がプログラムとは異なるものかどうか、どうしたら区別できるようになるのでしょうか?
あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなたがた、そして生きとし生けるものすべての目的は、できるかぎりの栄光を体験する、ということだ。
意識を持つ私たちはどうしても幸福を願います。神も私たちの目的は栄光を体験することだけだと語っています。神の意図によってそのように創造されたのだと思います。栄光を体験するということは、人間にとっては自分が望む状態になることであり、つきつめれば幸せになるということです。でも幸福を「願う」ので幸福にはなれないというのが現実です。では、どうすればいいのか?
最高の秘密は、人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。
(ウォルシュ氏:人生は学校のようなものだと言う人がいますが、神は人生は学校ではないと言いました。それでは、何のためにこの世に生きているのですか?)
自分が何者であるかを思い出すため、そして創りなおすためだ。
「何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。」と語る一方、自分が何者であるかを知らないから不安を抱くとも語っています。私は人間が天によって創造された天の一部であるということに気づくことが、この世の真理を悟ることだと考えており、自分なりに真理を悟れば、それが信念となり、不安を抱いてもそれを認め、自由意志によって別の選択が可能になると考えています。真理とは自分で考えて気づくものです。この世は相対性なので不安は必ず存在します。そして私たちの目的は幸福になることなので、何者になるかを決めて、自由意志の力でポジティブな選択をし行動し続けることが創造につながると考えています。